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チェルノブイリ原発はどうだったんだろう

昨日紹介した、福島原子力発電所のQAは、なぜか
URLがクローズされてしまった。

京都大学の教授が一般人の質問に対して
とても丁寧に回答していて、私自身とても
ためになった。

しかし、現状はもっと悪循環にすすんでいる
のかもしれない から 日毎に状況が
変わっているのでページが更新できていない
ためなのかもしれない

チェルノブイリの当時は、以下のページで
確認できる

福島原子力とチェリノブイリとの違いは、
原子炉が爆発したわけではない と いう1点

しかし、当時の原子炉の爆発後の写真を見ると
福島原子炉 の 写真 がかぶってしまう。

専門家でさえも、想定外 だった 今の事態を
どうやって解決していけるのか 
福島原子力発電所から200km 離れた
私は、実は結構不安 である

不安を解消するためには、
新聞や、専門家の話を聞き
パニックに陥らず、冷静に生活することが 
必要だと 日々 言い聞かせている

チェリノブイリの詳細
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/Henc.html

以下、文面より抜粋
事故のすさまじさは、連日の報道を思い起こしながら
以下の文章を読んでもらいたい。
福島は、3/11から19日を経過

チェリノブイリは以下を読んだだけでも
すさまじい数値となっている

更なる ”想定外” を起こさないでほしい

1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国の北辺に位置するチェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生した。

 保守点検のため前日より原子炉停止作業中であった4号炉(出力100万kW、1983年12月運転開始)で、26日午前1時23分(モスクワ時間)急激な出力上昇をもたらす暴走事故が発生し爆発に至った。目撃者によると、夜空に花火が上がったようであった。原子炉とその建屋は一瞬のうちに破壊され、爆発とそれに引き続いた火災にともない、大量の放射能放出が継続した。最初の放射能雲は西から北西方向に流され、ベラルーシ南部を通過しバルト海へ向かった。4月27日には海を越えたスウェーデンで放射能が検出され、これをきっかけに28日ソ連政府は事故発生の公表を余儀なくされた。

チェルノブイリからの放射能は、4月末までにヨーロッパ各地で、さらに5月上旬にかけて北半球のほぼ全域で観測された。大阪府泉南郡にある京都大学原子炉実験所の筆者らのグループが最初にチェルノブイリからの放射能を観測したのは、5月3日に降った雨水からであった。

 事故から4ヶ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出した。その報告などに基づくと、大量の放射線被曝による急性障害が200名あまりの原発職員と消防士に現れ、結局31人が死亡した(爆発の時に行方不明になった1人、事故当日火傷で亡くなった1人、被曝以外の死因1人を含む)。事故翌日の4月27日に、原発に隣接するプリピャチ市住民4万5000人が避難し、さらに5月3日から6日にかけて周辺30km圏から9万人、結局13万5000人の住民が避難した。周辺住民には急性の放射線障害は皆無であったとされている。

 燃え続ける原子炉を封じ込めて火災を消火するため、4月末から5月始めにかけて、砂、鉛、ホウ素など5000トン以上の資材がヘリコプターから炉心めがけて投下された。86年ソ連報告によると、5月6日になって大量の放射能放出が終わったとされている。
 崩壊した原子炉と建屋を丸ごとコンクリートで囲い込む「石棺」の建設が6月から始まり11月に完成した。火災の鎮圧、汚染除去、石棺建設といった事故処理作業には、軍隊をはじめとして大量の作業員がソ連各地から動員され、その数は60万人から80万人に及んだ。
 石棺の建設と平行して残っ1~3号炉の復旧作業が進められ、1号炉の運転再開は9月29日、2号炉は11月9日、3号炉は87年12月であった。また、事故当時建設中であった5,6号炉の建設は中止となった。